昭和46年05月14日 朝の御理解
御理解 第30節 「神を信ずる者は多いが神に信じられる者のが少ない。」
神を信じる者は多いと言う事は、こうして朝の御祈念にでもお参りなさってる方達は、先ず神を信じているからこそお参りが出来ておるわけですね。これはまた絶対信と言うとはまた違いますけどね、何とはなしに神様を信じておる。いやもう次々と体験を頂いて、神様を信じておると。体験から生れて来る所の信用ね、だからま言うならば、信者のほとんどは神を信ずる者と言う事になるでしょう。
所が神に信ぜられる者が少ないとこう言う。御神徳とは神様の御信用だと久留米の石橋先生は仰っておられたそうですが、結局お徳を受ける者は少ないと言う事を言いなさったですね。神に信じられると言う事は、神様の御神徳を受ける、其処で神様を段々信ずることが出来る。信ずる力が段々強くなってくると、もう疑う余地はないと。神様をなら信じてさえ行ければ、神様から信じられるかというと、そうでもないと思うですね。なら、どう云う様な信心をさして貰うたら、どういう人が神様に信じられるかと。
信じられる為にどうゆう信心を成さして頂いたら良いかと。神様に信じられたら、信心をするという様な事は実を言うたらいけんのですよね。これはまあ対人間の場合でもそうですが、主人に信じられなければならんから真面目にやるというのは本当の真面目じゃないですね。信じられる、信ずる、信じられるは別として、やはりまあ正直な人、いわゆる誠実の人、信じられる為に正直であったり、誠実であったりというのは本当じゃない。信じられる為ではない、もう根から正直なのである。
誠実なのである。そういう人が、私は主人は主人に信じられると。主人に信じて貰うためにとなると、主人の目の前だけ、その誠実に真面目にやって、いわゆる必ず影が出来る。ですから、結局、真から影日向のない私にならせて頂く、と言う事に成りますですね。其処にあの人は、間違いがないと言う事になって来る様に、根本的な信じられる為に信心すると言った様なものでなくて、根本的に信心が身に入って行くと言う事に、なるのじゃないですかね。
御理解六十九節に。「信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうする」と仰せられてある。だから難しい信心をしている間は、私は信用は受けられんと思うですね。信心が難しいと、信心がみ易いものになった時です、み易すいと言う事は、信心が有難うなる、信心が楽しゅうなる。そういう信心がです私は続けられると言う事。三年、五年の信心ではまだ迷いやすいと。十年の信心が続いたらとこう仰せられる。
我ながら喜んでわが心をまつれ、信心が有難うなり、信心が楽しゅうなり、もう言わば寝てもさめても、この神様のことを思うたら有難うならして貰える。やはりそれには三年、五年では迷いやすい、やはりそれには年季が入らなければ駄目。初めの間はパ-ッとこう桜の花が咲いたような信心をしておる。だからあの人は良い信心と言えない、むしろそういう人は信心が言わば動不同があると申しますからね。
自分の気持ちの良い時には、それこそ桜の花の信心するけど、一寸そこに何かに困ったり行き詰まったりまたはして来ると、やはり何か不信の念というか、神様信ずることが段々出来なくなって、また信心がおだれて来る。また、何か困った時に打ち込む、そういうのではいけない。やはり信心には年季が大事で、やはり梅の花のような信心辛抱さして頂いてい行く中に、信心が段々格好なものになってくる。
いよいよ自分の心の中に、有難い、信心を頂いておると言う事有難い、信心の稽古をさして頂くことが楽しいと、そういう信心が続いたら、われながら喜んで和賀心を祭ると有難い。自分で自分の心が拝めれるようになってくる。信心はね、私はその頃からだと思うですね、神様の御信用が頂けるというのは。修行がまだ苦労であったり、お参りが億劫であったり、おかげ受けんならんけん参りよると言った様な時代は、神様を信ずると言う事の為の過程であって、神様から信じられる言う過程ではないと私は思う。
神様に信じられる過程に入るというのは、信心が有難うなるだけではなくて楽しゅうなる。信心が難しいものでなくて、容易うなる。我ながら自分の心が拝めれるようになる。そういう信心、其処から私は神様に信じられると申しますかね、いわゆる過程ということになる。御神徳を受けて行くということになる。確かに私はそう思うですね。普通から言うたら、本当に苦しい真最中。
いわゆる修行に最中と言う事は、苦しい真最中と言う事。そういう時に一つも苦しいとも思っていない、もう有難うして有難うしてと言う事である。私はお徳を受けるという人達は皆そうだと思う。私どもでもそうだと思います。もし私にお徳を受けておるとするならば、私もそれこそ修行の真最中という時、いろんな意味で苦しいところを通っている最中に、おかげを受けたんじゃないか。
神様の御信用受けたんじゃないかと思うんです。まあ受けておるとすれば。なぜって皆がそう言いよりました。「ほんなごとそげん有難いとですか」と。そういう自分の私の姿というものは、自分で自分の姿を映すわけにはいかんけれども、人の目にそういうふうに映じておった。本当にあの人の後から後光の差しよるごとあるちゅうと、知らん人が言いよんなった。もう暑かろうが、寒かろうが、唯何処までも、何処にこんな病人さんがあるから話に行って下さいというと、お話しに行っちゃった。
もうそのことが楽しゅうして、有難うしてたまらじゃった。それは確かにね、自分で自分のこと言うとおかしいですけれども、私本当にあのー人間の心の中に誰でもやはり、神様としての資格を持って居るから光があると。光を持っておる。ただそれを発散することが出来るか出来ないかと。だから私がまだ修行中の時分に、ある方がお夢を頂いた。私の後になら後光がこうー差しとるとお知らせを頂かれた。「椛目の大坪さんは神様」ちゅうて人が評判する時代。
オーラというんですかね、それが誰にでもある。それがね、もう信心が楽しゅうして、修行が楽しゅうして、信心が有難うして、信心が修行が有難うしてという時にですね、私はそのオーラというものが輝くんじゃないかと思います。それが出て来るのじゃないかと思う。だから仏様やらね拝ましてもらうと、後にこうして後光の差した姿があるが、あれは皆そうなんです。人間皆誰しもがそういう光を持っておる。それを発散できる事か出来ないかと言う事なんである。
昨日其処へ、伊万里の竹内先生が控えにおられて話をしておった。所へ合楽の中村さんですね。合楽会長さんがお参りして見えてから、竹内先生にお話ししとんなさいました。もう本当に、此処に参りするまでは、一杯心の中にいろんなものを持っておる。あれも聞いて頂こう、これもお届けしようと思うてお参りをしてくる。言うならはずんで参ってくるけれど、親先生にお会いするとです、何んにもお届けする事がないと。私だけじゃろうかと竹内先生に話しよんなさる。
いいえ私どもでも同じですよと。もう合楽とは不思議なところ、お参りしてくると、もう自分の苦しいことやら、あれもこれもお届けしようと思うておったことが解けてしまう。消えてしまう。私は言うならそういう一つの光のために、消えてしまうのじゃないかとこう思う。誰しもが神の氏子としての、言わば値打ちを云う物を皆が頂いとる。皆が神の氏子じゃとこう仰せられる。だからそれをね、私は現し得ると言う事がです、信心だと思います。
信心をさして頂いて、段々いわゆる三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年経ってとこう仰せられる。私どもの信心がその十年と続いて、しかもその信心がです楽しゅうなり、有難うなって来ると云う所になってくる時、私は和賀心が我ながら拝めるような状態が段々出来てくる。そういう時には私共の言うなら後に、後光の差す様な事に成って来るのじゃないか、それを神様が認めて下さる。
所謂認めて下さると言う事は、神様から信じられると言う事。どんなに考えても自分で自分の心が拝みたい様な心を、もう汚くしようとか根性悪うさして貰おう等とは、もう思わなくなるです。もうそれは馬鹿らしゅうなってくる。愈々有難うなる一途をたどるだけであって、其処まで行った時にです信心は益々有難いものになってくる。そこの辺の所を行ったり来たりしている時が、信心は難しいというのじゃないでしょうか。
信心は決して難しいものじゃないと言われるけれども、其処まではやはり難しさを感じる。難儀は難儀、苦しいことは苦しいことと感ずる。お互いがお参りをさして頂いて、お願いをさして頂くと言う事は、神様をそこ信じて居るから、其処にお参りもすれば、または願いもするわけであります。ですから、其処の所が、いわゆる梅の花の信心をさして頂いて、いやお参りをする、お願いをする。
自分の思うようにおかげを頂く、そこで神様が分かるというのでなくてです、思うようにならない時にも、いよいよ神様が分かると言う事。それはどう言う事かというと、いよいよ自分が分かると言う事。いよいよ自分の信心が分かると言う事。其処でです、おかげが受けられないことに、成程が付くようになる。これじゃおかげが受けられんはずだと言う事。そこからいよいよ信心辛抱が出来る。
これだけ信心するのにどうしてと言う事でなくて、これはおかげの受けられんのが本当だと、当たり前だと自分自身が本気で見極められて来るようになって来ると、そう言う事になってくる。其処から言わば改まる事に磨かして頂くことに、精進して行くわけです。其処からおかげが受けられる。お願いをしておかげを頂いて、ああ神様ちゃやはり御座るという信心からね、お願いしてもお願いしても、いわばおかげにならない。
そういう時にです、信心如何によって神様から私は認められるというか、信じられるという信心が育ってくると思う。言うなら神様から信じられる一番大事な時期なのである。信心て、神様から神様から信じてもらおうと思うてじゃない、其れはおかげを受けられたいからではありますけれども、おかげを受けられない所を、成程おかげが受けられんはずである。自分自身を自分自身の信心を見極める。分かってくる。
そこから信心修行が、本当な修行が出来て来る様になる。本気で改まらして頂くことが出来る。本気で研く事に精進する。そこから所謂三年の信心が、五年十年と続くわけである。辛抱するから。そういう信心をさして頂く所からです、おかげが受けられるようになる。その頃には所謂神様のいわば、認められる所ともなり、神様の御信用受けることともなり、それから信心が見易いものになってくる、楽しいものになってくる。信心が容易うなる所までお互いの信心を進めたい、有難いものになる所まで。
それはおかげさえ頂けりゃ誰でも有難いというのは、あれは有難いのじゃない。あれは嬉しいのじゃ。それは願ったことが右と願って左となっても有難い。本当に有難いとですかと言われる程に有難い。そういう私は過程を大事にする人、そういう過程ですか、道すがらです、其処ん所を私は実意丁寧に目細う信心して行く人、そういう人達の上に、私は信じられる氏子、そしてお取り立てが頂けるとこう思う。
神様に信じられる其の事は、いわゆる私はそのまま御神徳だと思います。神を信ずるものは多い。信心しておかげを受けるものは多いと言う事とでしょう。けれどもおかげは受けなくても信心が嬉しゅうなり有難うなると、いう程しの人達の上に、神様の心が動く。神様の認められる所となる。その神様から認められると云う所が御神徳。その御神徳によって、私どもがおかげを受けると言う事。
そういう私は内容を持っている御理解だと思います。これをまたの表現に致しますと、神を信ずるものは多いがと仰るが、本当言うたら、神を本当に信ずるものすらが、この頃は段々少なくなったとも言えます。これはただし絶対信ですよね、唯其処ん所を、ただ神を信ずるものはというのは、お参りのしておる程しの人ならば、一応は皆、神様を信じておると人という見方もあります。
けれども本当に信ずると言う事であったら。もっと私はおかげが違うて来なければならない。修行も変って来なければならない。神を信ずると、だからそう云う言い方をしますと、実を言うとこれだけ沢山お参りして来とるけれども、本当に神様を信じとる人は、ごく稀だと言う事になる。そのごく稀だというその信者が、私は神に信じられると言える事に成ると思う。
今日はそこん所をですね、神様に信じられると言う事は、神様に信じてもらいたいと思うて、ではなくて、自ずと神様が信じなさらなければ居られない程しのものが、私ども氏子の上に備わってくる。言うならば信心が見易うなってくる。信心が愈々、信心がというより、修行が有難うなってくる。修行が楽しゅうなる。そういう私は信心の上に、私の内容にあるところの光が表れてくる。
光を放つことが出来て来る。のが後光の差すような私、言うならば、我と和賀心が拝めるような信心、私になることが出来る。成程そう言う事になることがです、神に信じられた人の姿であるとこう思います。究極のところ、神様は此処の所を受けてくれよ。此処のところを分かってくれよと、仰せられるのが、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは此処のことだとこう思う。
信心がいよいよ有難いものに、楽しいものになって来る。それは、私どもが修行のただ今真最中と云う様な時、その修行そのものが有難うなり、楽しゅうなって来ると。信心が楽しいと言う事はそう言う事だと思う。ただ信心しておかげを受ける事が楽しいとか有難いとか、言うのは、だから私は本なこっちゃーないと思うですね。
どうぞ。